2020本屋大賞『流浪の月』感想(ネタバレあり!)

ごきげんよう!楓華 @Wisfil_Fukaです。

普段は、ミュージカルや旅行を趣味として生きていますが、このコロナ渦で劇場にも行けず、旅行に行くことも阻まれ、じゃぁ家で出来ること…ということで、読書熱が再燃してきています。

そこで、これからは久しぶりに燃えてきた読書熱の中読んだ本の感想を少しずつ紹介したいと思います。

今回は、2020年本屋大賞1位を受賞した凪良ゆう作の『流浪の月』の感想です。

一部ネタバレも含まれますので、未読の方はご注意を。

あらすじ

“マイペースすぎてやばい”面倒臭いことも我慢も嫌いなママと、公務員で優しくてママを心から愛するパパを両親にもつ、更紗がこの作品の主人公。

夜ご飯をアイスクリームで済ませたり、

ランドセルではなくカータブルを持たせたり、

ちょっと過激な映画を宅配ピザとアイスとポップコーン片手に家族で見たり、

団地暮らしで、決して裕福ではないけれど、家族3人で自由で気ままに楽しく暮らしていました。

しかし、パパが病死、ママはそれにより憔悴し元来“我慢”や“面倒くさいこと”が大嫌い故に、甘いお菓子を求め、更紗を置いて彼氏と出て行ってしまう。

置いていかれた更紗は、ママのお姉さん家族と暮らすことになったが、夜ご飯にアイスなんてあり得ない“普通の生活”を営む叔母の家は生活スタイルも、更紗にちょっかいを出す孝弘もいるので窮屈で居心地が悪い。

新しい学校では、重い赤い“皆と同じ”ランドセルを背負い、浮かないように友達にも無理して追随し疲れてしまう。

そんな更紗が唯一落ち着けるのは、公園で友達と遊んだ後に一人公園に戻り『赤毛のアン』を読む時。

この公園には、更紗たちが遊ぶ様子を読書するフリして眺める“ロリコン”のおじさんがいて皆警戒していたが、

ある小雨の降る日、更紗はこの“ロリコン”に「うちにくる?」と話しかけられ、「いく」と答えてしまう。

この“ロリコン”は、髪が長く真っ黒なふたつの穴みたいな目を持つ大学生の佐伯文(さえきふみ)。

最低限の家具しかない家に住む文は、教育熱心な母の影響でコーラやファンタは飲まない、食後眠くなっても寝ない、朝食は印を押したように毎朝同じものを食べる、“正しい生活”を営んでいた。

しかし、友達やおばさんから否定された夜ご飯にアイスクリームを否定もせず、あっさり受け入れてくれ、更紗にベッドを譲り、更紗に変なことをすることもない文にすっかり更紗は懐いてしまった。

“正しい生活”をしていた文は、敷っぱなしの布団に潜り宅配ピザを食べながら映画を見たり、テレビもNHKのニュース以外にアニメを見たり、夕飯の途中でアイスを食べたり、更紗の自由な性格、生活に影響され、「楽しいこと」や“堕落”を知る。

そして、更紗も文に影響され、毎日お掃除ワイパー、2日ごとにウェットシートで床拭き、繊維に合わせた洗濯をするなど、2人の生活は、日ごとに混ざり合い、でも中間にはならず“ちゃんとする”と“怠ける”をしっかり使い分けるように。

こんな風に、2人の異なる生活スタイル、性格のマリアージュを楽しみ暮らしていた2人だが、ある日ついに更紗は“誘拐犯”から引き離されることに。

警察で色々と事情を聞かれた更紗は、文が優しかったこと、文が紳士的であることを一生懸命伝えたが、

「お兄ちゃんから体を触られたことある?」との質問で、従兄弟の孝弘からされていたことを思い出し体が震えてしまい、文は悪者にされてしまう。

更紗は、また叔母さんの家に戻されるが、再び孝弘は夜になると更紗に部屋に忍び込み悪戯をしようとする。

それに反発し、孝弘に攻撃をした更紗は叔母の家を出て養護施設で暮らすことになる。

そして、それから時は流れ更紗は24才に。

高卒で就職と共に養護施設を出て、今はそこで出会った恋人亮と同棲し、ファミレスでバイトをする生活。

更紗は、『傷物にされた可哀想な女の子』というスタンプを常にペタペタ貼られて生きてきたが、

世間が思う“傷つけた人”は更紗にとっては、居心地の良い何もしなかった文で、

更紗が思う“傷つけた人”、孝弘は何の罰も受けずに大学まで進学し就職しのうのうと暮らしている。

文の身の潔白を誰に話しても“洗脳されている”と捉えられ、誰にも理解してもらえない。

ずっとこの違和感を覚えながら更紗は生きてきた。

一方的に結婚話を進めようとする亮に、「24才だしまぁ結婚もいいのかな。」なんて曖昧に考えていた更紗はある日、文がオーナーの喫茶店を見つけてしまう。

文にまた出会えたことにより、更紗の人生の歯車はまた動き出し、

文と一緒にいたい気持ち、

文との楽しかった生活が更紗の行動を突き動かし、

恋人の亮や、文の恋人谷さんをも巻き込み狂っていく。

 

そして、文もまたダメだと分かりながらも、ずっと更紗を求め続け、実は更紗の住む街の近くへと行き、更紗に会える日を待っていたのだった。

一緒にいることが、世界中の誰からも理解されず反対され続けるけれども、最後にはそれでも一緒にいることを選んだ文と更紗。

誰から何を言われようが、非難されようが、どこへでも流れて行こうとも、文も更紗ももう1人ではないのだ。

感想

8日目の蝉

ちょっと違うんだけれども、私は読んでいる途中から角田光代の『8日目の蝉』を思い出した。

『8日目の蝉』のカオル(えりな)は、“誘拐された女の子”として世間の好奇の目にさらされ、実の親ともギクシャクしていたけれど、

カオルにとって、誘拐犯の希和子との生活は、温かい島の人々に囲まれ充実いていたし、“母”希和子もとても優しくて、細やかだけれど幸せで充実していた。

心のどこかで「ずっと(希和子の元へ。小豆島へ。)戻って来たいと思っていた。」けれども、それは口に出してはいけない。誰にも理解されない。と一人で抱え、隠し、蓋をして生きてきた。

そして、更紗にとって、文との生活もまた“幸せ”なんて誰からも理解されないけれど、確実にママとパパを失って初めて感じた“幸せ”で、ありのままの自分を出せる充実した生活で、

文との3ヶ月は、更紗にとって「ずっと戻りたいと思っていた。」生活、場所だったんだと思う。

カオルと更紗に共通しているな。と思うのが、

誘拐の“被害者”という世間の目、好奇の目、

世間で“良い”とされている“生活”や“場所”に違和感を感じ、世間で“悪”や“可哀想”とされる生活に快適さを覚えていたところ、

それ故の生き辛さと、自分のことなのにどこか他人ごとのような無関心さ、

周りに合わせる迎合性、

そして、“性”に対する嫌悪感。(カオルは違ったかも…曖昧。)

私も同級生や職場の仲間に“過去に誘拐された人”がいたら、好奇の目で見て探りを入れたり、助けてあげるフリ優しいフリ親切なフリをして、「洗脳されてるわー。可哀想w」なんて言ってしまうかもしれない。

というか、世間一般的に“誘拐された”なんて可哀想で悲惨な子というレッテルしか存在しない。

その中に、カオルや更紗のような“幸せ”があったなんて想像も出来ないし、あり得ない!と思う。

世間一般の印象とレッテルと、本人の感想や印象の乖離。

永遠に交わることのない平行線が虚しい。

互いを破壊しあう“闇”と“弱さ”と“正当化”

まぁ世間一般、世の中の皆がそうだと思うけれど、

この作品の登場人物も皆、“闇”を持ち、自分を傷つけないように、“弱さ”を見られないように正当化して、自分に良いように解釈して生きているな。

そして、それが文や更紗を傷つけ苦しめ追い詰めているな。と感じた。

更紗のママは、マイペースといえば聞こえは良いけれど、ただのワガママで、利己的だと思う。

辛いこと、悲しいこと、我慢すること、人に合わせることが嫌いだから、甘いお菓子を求めて“荷物”“面倒なこと”である更紗を捨てたわけだし、更紗が誘拐されたというニュースを見てるのか見てないのか分からないけれど、完全スルー。

叔母さんは、小さい頃から迷惑かけられぱなしだった妹の更紗ママを仇に思っているからなのか、“正しさ”を教えるために更紗を抑圧して、そしてママに似ている更紗を疎ましがったんだと思う。

更紗の彼氏の亮は、母が出て行ったという過去、悲しさがあるから、自分から逃げないだろう事情のある子を恋人にして、自分の支配下に置き、言うことを聞かないと力でねじ伏せようと、自分の思い通りにさせようとあの手この手の、最も“弱さ”を抱えた人間だと思った。

でも、それはお母さんに逃げられた故に抱えてしまった闇、持ってしまった“弱さ”で、

そもそも、お母さんが逃げたのは夫からのDVや、恐らくだけれどお姑さんや農家の嫁という息苦しさというお母さんの抱える“闇”や、お母さんを取り巻く環境が生み出し、お母さんに影響を与えた“闇”なのだと思う。

文の彼女の谷さんは、文と付き合っていながら、「そういうことがない」ことや、自分のことを全く話してくれない文との関係に不安と違和感を覚えていた。

自分を抱いてくれないことを、病気で片胸がないから、何も話してくれないことを自分に価値がないから。と思い落ち込んでいたが、

更紗を過去に誘拐したことを知り、

自分を抱かないのは文が小児愛者だから、

何も話さなかったのは誘拐犯だということを話すと、自分(谷さん)が気持ち悪がるから。

と自分に良いように解釈し、何の非もなく、全て文が悪い。

文が選んだこと。自分は文に利用されただけ、と考え正当化することによって勝手に救われて自己保身に走っていて、

真実を知りたい反面、自分も守りたい気持ちでごちゃ混ぜの谷さんは見ていて痛々しくも、ずるくも、ちょっと共感も出来た。

この作品は、ペイイットフォワードの逆バージョンが文と更紗の周りには渦巻いていて、苦しく辛かった。

※ペイイットフォワードとは、ある人物から受け取った親切を今度は自分が別の人物に親切として渡すことによって、皆が幸せになるということ。(同名の映画では、自分が受け取った親切を3人に渡し、その3人も別の3人に…と繋ぐことにより世界が平和になる。というストーリーだったような。)

子育てについて

私は、まだ子供がいないし理想論でしかないけれど、

子供ができたら、彼(彼女)を一人の意思のある人間、自分とは違う人間として育てようと考えている。

というのも、

本当はセーラームーンの自転車が良かったけれど、ミニーちゃんの方がかわいいね!と両親がミニーの自転車を買い与えたこと。

マジックテープの付いた靴ではなく、皆と同じようなスリッポンタイプの靴が良かったこと。(皆と違うことにより楓華ちゃんの靴だけ違う!と言われたこと。)

自分の偏差値よりも少し落ちるが、自分に合う。と感じた高校でなく、両親が選んだ偏差値が少し高めで勉強熱心な高校に入学させられたこと。

首都圏を離れ、関西の大学で歴史や文学を学びたいという気持ちを断固として受け入れて貰えなかったこと。

などを時々鮮明に思い出すからだ。

親を恨んではいない。しかし、時々自分の意見を聞いてもらえなかったこと、両親が選んだことにより不都合が生じて嫌だったことを思い出し、

じゃない。反対の道にいる自分に思いを馳せ、

「なんで。」という気持ちに蝕まれることがある。

(逆に、自分で選んだことによる失敗もあるけれど。後悔はしていない。自己責任だと消化できている。)

文の母親は、子供を一人の意思のある人間として見ておらず、傀儡と見ているように感じた。

教育熱心で、“子供のため”を思っているように見せかけ、文の母親は自分自身しか見ていないように、文の気持ちや文という存在そのものを置き去りにしてる。

また、不出来を恐ろしいまでに嫌い、細くて伸びないトネリコを簡単に引きぬき、“優秀”なものと取り替えることが出来る残酷さがある。

(自分がトネリコになるのでは。という恐怖を文は抱き続け、捨てられたトネリコに思いを馳せるように。)

“正しさ”に囚われ、“正しさ”に取り憑かれ、“優秀”、“レール通り”を求め、目の前の子どもの個性は見ない。

会社経営する夫の後継者を立派に育てなくてはいけない。という脅迫観念もあったのだと理解は出来るけれど、

文が兄(長男)や年頃の男の子たちとは違いいつまでも中性的で“男らしさ”がないことや、繊細な文の気持ちに気付き、寄り添うことをしなかったが故に、文を追い詰めたこと。

文が起こした事件は自分にも責任があることに気づき、せめて事件後の文に寄り添って欲しかった。

というか、この物語に出てくる“親”って“自分”が強い人が多かったな。

何が正解かは、分からないけれど、意外と物語上は親も自由にしている方が子どもは自由に育つのかな。なんて感じた。

まぁ本当のことは、子育て未経験の私には分からないけれど。

『本物の愛』

これが、この作品中に流れるテーマだと思う。

作中にこんな一説があった。

葡萄としかいいようのない、でも葡萄ではないまがいものの匂い。愛情もそうなのかもしれない。世の中に『本物の愛』なんてどれくらいある?よく似ていて、でも少し違うものの方が多いんじゃない?みんなうっすら気づいていて、でもこれは本物じゃないからと捨てたりしない。本物なんてそうそう世の中に転がっていない。だから自分が手にしたものを愛と定めて、そこに殉じようと心を決める。それが結婚かもしれない。

更紗は、自分が何を幸せとし、歓びとし、悲しみとするのか、自分を、自分という輪郭を失っている中で、こんなもんなのかな。と亮との結婚をなんとなく決意し、文から離れることを決める。

しかし、離れられなかった。

私は、まだ『本物の愛』は分からないけれど、主人に対する気持ちや愛着は“愛”なんじゃないかなと思う。

ステイタスとか、お金とか、仕事とか、互いの家族や背景とか、そんなものを全部無視して、

ただ居心地がいい、一緒にいてラク、荷物を下ろせる、ありのままでいられる、意見が真っ二つに分かれても納得できるまで話し合いどちらにするのか、もしくは妥協案を探すのか決めれる、別に1人でも平気だけれど2人だと最強!

そんな相手が“愛”する人で、結婚相手なんだと思っている。

(私はそうだし、そう信じて主人とハッピーに日々を過ごしている。)

だから、文と更紗の間にあるものは、恋でも同情でも依存でもなく“愛”だと思った。

更紗にとって、文が第二次性徴がなくとも別に関係ない。それが文だから。ありのままで、ママとパパ譲りの自由を発揮できるか場所だから。(第一、更紗は“性”に対する嫌悪感を持っているし。)

文にとって更紗は、“正しさ”から解放してくれる“自由”の象徴で、肩にのしかかっていた“理想”という荷物を投げ捨ててくれる乱暴さがあり、初めて手ぶらで歩く快適さを教えてくれた存在。

2人が一緒にいること、求め合うことは、

世間からは、異質なもの、洗脳されている、ストックホルム症候群、狂っている。とか思われても、

それでも、一緒にいたい。強く引きつけ離れられない。

そんな2人の間にあるものは、誰にも理解されないけれど、それが愛なのかもと思った。

結婚する。とかパートナーを見つけた。という“愛”は皆から祝福されるものであるのに、

文と更紗のような、強く求め引きつけあう“愛”は、その背景故に非難され、異質なものと捉えられる。

結婚って“愛”の結末ってイメージだけれど、お金やステイタスのためや周りのため、もう30才で結婚適齢期だから…とか妥協や惰性…etc

も結構ある。

結婚=真実の愛とは言い切れないのに、正しいもののように扱われ、考えられている。

実は、結婚とかこの世に転がる“愛”の方が、“自己暗示”や“洗脳”や”言い聞かせ“であって、“真実の愛“ではないのかもしれない。

じゃぁ”真実の愛“って?

人から認められ、祝福されるものだけが”真実の愛“なの?

切なくも苦しくも難しい作品、テーマだ。

おわりに

私は、この作品を一気に読んでしまいました。

何か劇的なことは起こらないし、どんでん返しもないけれど、

1人1人の持つ闇や弱さが人を少しずつ傷つけ、人に影響を与え、

文と更紗という人物を生んでしまっていると感じました。

文や更紗という分かりやすい“被害者”はそんなにはいないのかもしれないけれど、

この世の中に生きる人々は、少なからず誰かの弱さや闇の被害者で、それに蝕まれ、その蝕みによりまた人を傷つけて生きているのかな。と思いました。

あと、“愛”という存在の曖昧さと、奇妙さ、そして個体差も。

読んだ直後は、モヤっとしたけれど、少しずつ咀嚼をし自分の中で消化されていくことにより、色が出て、理解が出来た面白い作品でした。

さすが本屋大賞。

久々の読書で、思うことが多すぎて長くなってしまいました。

最後までありがとうございました!

それでは!ごきげんよう。

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